イ・サン

韓国ドラマ イ・サン ウィキペディアより詳しいイ・サン 第22代朝鮮王正祖(チョンジョ) 歴代朝鮮王の中で最も魅力ある正祖を、韓国時代劇イ・サンを通じて考証していきます

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朝鮮正祖・李祘 (チョソンチョンジョ イ・サン) ウィキペディアより詳しいイ・サン2 即位初期

      2014/04/25

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1775年11月20日、英祖は祘(サン)に代理聴政をさせようとするも、左議政・洪璘漢(ホン・イナン:홍인한)三不必知説(:サムプルピルジソル:삼불필지설)といわれる主張を展開し反対した。

「東宮不必知老論、少論, 不必知吏判、兵判, 至於朝廷事, 尤不必知矣。:東宮においては老論と小論(の事)を知る必要がなく、吏曹判書と兵曹判書(の仕事)を知る必要はありません。朝廷の事に至ってはもっと知る必要はありません」という辛辣なものだった。

このときに、老論(ノロン:노론)に真っ向から反対し、上訴を出した前吏曹参判(イジョチャンパン)徐命善(ソ・ミョンソン:서명선)の働きが、英祖と世孫の大きな助けになった。

洪麟漢/洪璘漢(ホン・イナン)は世孫の叔父であるにもかかわらず、最大の障壁だったため、英祖はなんとしても排除したかったが名分がなかった。そんな時の助け舟がまさに徐命善(ソ・ミョンソン)の上訴だった。結局これをもとに洪麟漢の弾劾に成功し、彼は宮廷を追われることとなった。

その後、代理聴政の具現に尽力した徐命善は世孫に登用され、最終的に領議政(ヨンウィジョン:영의정)まで上り詰めた。

結局、1775年12月7日以降、代理聴政は開始された。

 

1776年陰暦3月5日、英祖が慶煕宮集慶堂(キョンヒグン チプキョンダン:경희궁집경당)にて83才で崩御。イ・サンが代理聴政を初めて82日後のことだった。

5日後の3月10日、25歳の祘(サン)は慶煕宮の崇政門(スンジョンムン:숭정문)にて第22代朝鮮王に即位した。 即位の折「思悼世子の息子(サドセジャエ アドゥル:사도세자의 아들)」と言い放ち、老論を牽制したことは有名。

※日本語ウィキペディアには「余は荘献世子の息子である」と記載されているが、荘献世子という尊号を与えたのは翌年の1777年であるため、思悼世子のほうが正しい。

 

けれども、宗統(チョントン:종통)は養父・孝章世子(ヒョジャンセジャ:효장세자)からとなるため、孝章世子を真宗大王(チンジョンデワン:진종대왕)に追尊した。

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英祖の中殿(チュンジョン:중전)貞純王后 金氏(チョンスンワンフ キムシ:정순왕후 김씨)も王大妃に格上げした。

実父と実母は王と王大妃まではいかないまでも格を上げ、それぞれ思悼世子から荘献世子へ、恵嬪(ヘビン:혜빈)から恵慶宮(ヘギョングン:혜경궁)洪氏(ホンシ:홍씨)とした。

それに伴い、荘献世子の王への追尊を論じることを容認しない旨を明らかにした。
慶尚道(キョンサンド:경상도)安東(アンドン:안동)の儒者・李道顕(イ・ドヒョン:이도현)が思悼世子を追崇すべきという上訴したが、その訴えを受け入れず、 かえって死刑に処した。このように、即位直後には老論僻派(ノロンピョッパ:노론벽파)の懐疑心を回避する試みをみせた。

 

一方で即位年の1776年には結局、老論僻派の粛清を行った。洪相簡(ホンサンガン:홍상간)・尹養老(ユン・ヤンノ:윤양로)、翌年、恩全君(ウンジョングン:은전군)を推戴し謀反を企てようとした洪相範(ホン・サンボム:홍상범)を死に追いやった。

また、側近の洪国栄(ホン・グギョン:홍국영)を排除しようとした罪により鄭厚謙(チョン・フギョム:정후겸)・外祖父の弟・麟漢(ホン・イナン:홍인한)を賜死に、鄭厚謙の養母で正祖の叔母の和緩翁主(ファワンオンジュ:화완옹주)廃庶人(ペソイン:폐서인)とし流刑に処した。

 

外祖父の洪鳳漢(ホン・ボンハン:홍봉한)も弾劾されていたが、正祖は処分しなかった。
その息子・洪楽任(ホン・ナギム:홍낙임)は1777年の宮廷への刺客侵入事件の連座として名が上がっていたが、母・恵慶宮の懇願により処分をしていない。

この時、推戴を受ける者として名があった異母兄弟の恩全君(ウンジョングン:은전군)は賜死とされた。
一連の処分者は70名ほどとなり、明義録(ミョンウィロク:명의록)に詳細を記録した。

 

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