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韓国ドラマ イ・サン ウィキペディアより詳しいイ・サン 第22代朝鮮王正祖(チョンジョ) 歴代朝鮮王の中で最も魅力ある正祖を、韓国時代劇イ・サンを通じて考証していきます

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朝鮮正祖・李祘 (チョソンチョンジョ イ・サン) ウィキペディアより詳しいイ・サン 即位前

      2014/02/13

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朝鮮正祖・李祘 (チョソンチョンジョ イ・サン:조선 정조 이산) 朝鮮王朝第21代王

陰暦:英祖28年9月22日- 正祖24年6月28日(1752年10月28日 – 1800年8月18日)

思悼世子(サドセジャ:사도세자)と恵慶宮洪氏(ヘギョングン ホンシ:혜경궁 홍씨)の次男として、昌慶宮(チャンギョングン:창경궁)の景春殿(キョンチュンジョン:경춘전)で生まれた。

※思悼世子は祘(サン)即位後1777年に荘献世子(チャンホンセジャ:장헌세자)と追尊された。

諱(いみな)は祘(サン:산)、字(あざな)は亨運(ヒョンウン:형운)、号は弘齋(ホンジェ:홍재)

兄の懿昭世孫(ウィソセソン:의소세손)は祘(サン)の誕生年に夭折しているため、生まれながらにして祖父・英祖(ヨンジョ:영조)により元孫(ウォンソン:원손)に冊封された。 老論の目もあり、罪人となって死んだ思悼世子の息子のままでは王位継承に問題があるため、祖父・英祖(ヨンジョ:영조)の命により、すでに故人となっている叔父・孝章世子(ヒョジャンセジャ:효장세자)の養子となった。

 

1759年(英祖35)陰暦6月22日、昌慶宮(チャンギョングン:창경궁)の明政殿(ミョンジョンジョン:명정전)で王世孫(ワンセソン:왕세손)に冊封された。

1761年(英祖37)陰暦3月10日、成均館(ソンギュングァン:성균관)に入学。 陰暦3月18日、慶熙宮(キョンヒグン:경희궁)の景賢堂(キョンヒョンダン:경현당)で冠礼(クァンレ:관례)。

1762年(英祖38)陰暦2月2日、於義宮(オウィグン:어의궁)で清原府院君(チョンウォンプウォングン:청원부원군)金時黙(キム・シムク:김시묵)の娘、清風金氏(チョンプン キムシ:청풍 김씨)、のちの孝懿王后金氏(ヒョエワンフ キムシ:효의왕후 김씨)と嘉礼(カレ:가례)を上げた。

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父・思悼世子(サドセジャ:사도세자)は小論(ソロン:소론)から学問を学び、10歳の時には、過去の辛壬士禍(シニムサファ:신임사화)に関して老論(ノロン:노론)を批判するなど、反老論の態度を明確にしていた。

一方、思悼世子の父で祘(サン)の祖父・英宗(ヨンジョ)は、臣下の出身派閥を均衡に保つ蕩平策(タンピョンチェク:탕평책)を試みつつも、老論から守られて即位に至った経緯もあり、思悼世子のこのような態度を快く思っていなかった。

思悼世子が成長するにつれ、より反老論の態度が強まると、党争もシンクロして親子関係も修復し得ないものとなっていった。 また、それを助長したのが老論の間者のような役割を担った妻の恵嬪と、その実家の洪氏(ホンシ)だ。 洪氏は老論の領袖で、思悼世子と敵対していた。

そして遂に思悼世子と英祖の確執は頂点に達し、素行異常という理由で、思悼世子を米びつに閉じ込めてしまう。 閉じ込められて8日後の、1762年(英祖38)陰暦5月21日、思悼世子は遂に絶命した。

この不幸な出来事を目の当たりにした祘(サン)は、幼くして自分の立場を悟り、政治的発言を一切控え「ケユワ(개유와)」という読書室を作り、(意図的に)学問に没頭した。

思悼世子の死を目の当たりにした祘(サン)が即位した場合、老論が粛清の対象になるため、それを危惧した貞純王后(チョンスンワンフ:정순왕후)の家門、外祖父の弟・洪璘漢(ホン・イナン:홍인한)、叔母の和緩翁主(ファワンオンジュ:화완옹주)、和緩翁主の養子・鄭厚謙(チョン・フギョム:정후겸)らが祘(サン)の排除を試みるも、祘(サン)の腹心・洪国栄(ホン・グギョン:홍국영)の機転により、ことごとく失敗する。

 

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