イ・サン

韓国ドラマ イ・サン ウィキペディアより詳しいイ・サン 第22代朝鮮王正祖(チョンジョ) 歴代朝鮮王の中で最も魅力ある正祖を、韓国時代劇イ・サンを通じて考証していきます

イ・サンと天主教の関係は?

   

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イ・サン第61話。

ソンヨンの弟ウクが天主教徒として登場していますが、正祖(チョンジョ)イ・サンの時代の天主教はどのようなものだったのでしょうか?

まずは朝鮮における天主教の歴史を見てみましょう。

日本では「以後良く(1549)伝わるキリスト教」という覚え方もあるように、1549年にイエズス会のフランシスコ・ザビエルによって伝えられましたが、朝鮮ではそれに遅れること約200年のちに、天主教(チョンジュギョ:천주교カトリックのこと)が普及し始めました。

もちろん、それまでにも流入はしています。けれども、それは宗教としてではなく学問としての流入でした。西洋の学問をあらわす西学(ソハク:서학)という言葉は狭義には天主教のことをいい、天主学(チョンジュハク:천주학)とも呼ばれていました。

まず最初に文物として流入してきたのは1603年に李光庭(イ・グァンジョン:이광정)によりもたらされた世界地図と、世界史の教科書にもその名が登場するマテオ・リッチが書いた「天主実義」です。その後も算術・天文学など折に触れ流入し、1614年には3度も中国に渡った李睟光(イ・スグァン:이수광)により記された朝鮮発の百科事典・芝峰類説(チボンユソル:지봉유설)でも、知識として紹介されています。けれど、それが開花することはありませんでした。

その理由は旧態依然とした朱子学・性理学にあります。儒教国家における 性理学以外の学問は邪学なのです。その机上の空論のため、当時の日本と比べても、実益を伴った技術開発や庶民文化の熟達が著しく劣っていました。

それでも、清への使節団として派遣される儒者達は、徐々に西洋の文物に関心を持ち始めます。老論(ノロン:노론)4大臣の一人・李頤命(イ・イミョン:이이명)も、粛宗(スクチョン)代に北京で西洋人と交流を持ち、漢訳西学書を持ち帰っています。この時点で、「天主実義」が流入してきて約100年がたっていますが、学問として花開いておらず、宗教としては芽も出てない状況です。

天主学が学問として花開くのは李瀷(イ・イク:이익)以降です。彼は朝鮮西学の始祖ともいえる人物で、英祖(ヨンジョ)後期の1763年まで活躍しました。その後、朴趾源(パク・ジウォン:박지원)などにより西学(天主学)を基盤とした実学が展開されていくのですが、そのあたりは以前紹介した白塔派(ペクタプパ:백탑파)の記述を参照してください。

 

さて、ここからが本題です。(前置き長すぎですね!)

イ・サンが即位したのが1776年ですが、ほぼ同時期に宗教としての天主教が朝鮮で芽吹いてきます。ある資料によると1777年前後にその宗教的思想に対する意見交換が始まったといわれています。

そして、1783年に北京に行った李昇薫(イ・スンフン:이승훈)が朝鮮人としてはじめて正式な洗礼を受けます。彼は翌1784年(1785年とも)朝鮮天主教会を設置し、布教を開始しました。

ご存知のように、天主教は朝鮮性理学と対極をなす考え方です。男女に差もなく人にも差がない。為政者の徳により民を治めるという徳治主義とは相反する考え方です。そのため、抑圧されて活躍の場を失った南人(ナミン:남인)に広まり、その後女性にも急速に普及して行ったのです。

この時代の南人の天才・丁若鏞(チョン・ヤギョン:정약용)も2人の兄とともに天主教に造詣が深く、そのことにより、後年流刑となってしまいます。(南人の中にも基盤により官職についているものも少なからずいます)

 

イ・サンや南人の領袖・蔡済恭(チェ・ジェゴン:채제공)は当初から天主教の弾圧に消極的でした。たしかに性理学とは相反する考え方でしたが、実学と実利に及ぼす影響のほうが大きいと考えていたのでしょう。腹心として丁若鏞(チョン・ヤギョン)を重用していることからも、そのことがわかります。けれども、天主教に対する初めての迫害はイ・サンの御世に発生します。

まず、1788年に蔡済恭(チェ・ジェゴン)「愚民を誘惑する」という主張により天主教は邪学認定されます。これは、儒教を信奉する第一派閥の老論(ノロン)へのある種のポーズだったのでしょう。

そして、1791年に辛亥迫害(シネパケ:신해박해)が起きます。この事件は、尹持忠(ユン・ジチュン:윤지충)が、母の服喪を儒教的伝統どおりに執り行わなわず、天主教の形式で行ったことにより死罪となったというものです。

この朝鮮初の殉教者は庶民であれば問題なかったのですが、湖南の南人であり、丁若鏞(チョン・ヤギョン)の親戚だったため、ことが大きくなりました。ただし、天主教の消極的庇護者のイ・サンは彼とその親戚の2人を死刑にしただけにとどめました。

そして、1799年に蔡済恭(チェ・ジェゴン)が、翌1800年にイ・サンが亡くなると、天主教への消極的庇護さえもなくなり、1801年(純祖1)には大粛清・辛酉迫害(シンユバケ:신유박해)がおこります。もちろん黒幕は純祖の代理聴政を行っていた貞純王后 金氏(チョンスンワンフ キムシ:정순왕후 김씨)です。

この歴史的流れを知りつつドラマを見ていると、姉・ソンヨンと再会し幸せなウクにも、やがて不幸が訪れることがわかります。20年ほど先の話ですが。

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