閑中録(ハンジュンノク)
2014/02/13
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閑中録(ハンジュンノク:한중록)はイ・サンの母で思悼世子 (サドセジャ:사도세자)の夫人だった恵慶宮(ヘギョングン:혜경궁:1735-1815)が書いた自叙伝的回顧録を、家門の豊山洪氏(プンサンホンシ:풍산홍씨)の誰かがまとめたものです。
ハングルで書かれており、文章自体は過度な装飾もなく美しいものです。その内容は紆余曲折のあった自身の人生を、劇的かつ叙事的に描いています。
第15代光海君(クァンヘグン:광해군) と宣祖(ソンジョン:선조) の継妃・仁穆大妃(인목대비:インモクテビ)の闘争を記した癸丑日記(ケチュクイルギ:계축일기)、第19代粛宗(スクチョン:숙종)代の仁顕王后(イニョンワンフ:인현왕후)と張禧嬪(チャン・ヒビン:장희빈)との闘争を記した仁顕王后伝(イニョンワンフジョン:인현왕후전) とともに三大宮廷文学とされており、超一級の資料と位置づけられています。
宮中小説と呼ばれることもありますが、この時の小説の意味は「記録」という意味合いで使われます。また、前ニ者は大妃または王后の内人または周辺の人物が作者とされ作者は不明なのですが、閑中録は確かに恵慶宮が書いたことがわかっています。
閑中録(ハンジュンロク)には恨中録という漢字も当てられています。これは後世になって当てたもので、第26代高宗(コジョン:고종)についての記録・高宗実録には、閑中漫錄(ハンジュンマンノク:한중만록)として、また、漢文のものは泣血録(ウピョルロク:읍혈록)と記載されています。このように複数の表題が付くのは、元々表題がついていなかったからにほかなりません。
閑中録は1795年(正祖19)〜1805年(純祖5)の間に4度に分けて書かれました。
全4編の内容は以下のとおりです。
第1編は、1795年(正祖19)61歳、還暦の時、実家の甥ホン・スヨン(홍수영)の勧めで書き始めました。自身の誕生から世子嬪となったこと、その後のあわせて50年の宮中生活のことなどが書かれています。思悼世子 (サドセジャ)の悲劇については、とても語ることもできないとしています。
また、父・叔父・甥に起きた災難や、自身の孤独感なども記載されており、華城行宮での自身の還暦の遠賀の話で終わっています。この第1編は比較的ゆったりとした文で書かれています。
第2編は、1801年(純祖1)67歳、カトリック教徒に対する大粛清・辛酉迫害(シンユバケ:신유박해)に巻き込まれて賜死となった弟・洪楽任(ホン・ナギム:홍낙임)も含め、没落した実家を嘆き綴りました。書き始めは小姑・和緩翁主(ファワンオンジュ:화완옹주)について書かれており、初期にイ・サンが母を嫌ったのは彼女のせいだと記述しています。
また、叔父・洪麟漢(ホン・イナン:홍인한)が罪に問われたのは、洪国栄(ホン・グギョン:홍국영)の策略である旨も記述しています。最後には弟の汚名返上を祈願して締めくくっています。
第3編は、1802年(純祖2)68歳、孫・純祖に宛て、思悼世子の死と関連して実家は無実の罪を着せられた事をあきらかにするために綴られました。主題は第2編と同様です。
イ・サンの孝心の大きさを説明し、晩年には実家に対する処分を悔いて、甲子(1804)年には処分を解くと口約束したことを、具体的なやり取りを持って記述しています。
第4編は、1805年(純祖5)71歳、純祖の生母・嘉順宮(カスングン:가순궁) 綏嬪 朴氏(スビン パクシ:수빈 박씨)の要請で純祖に見せるために記述しました。この第4編ではじめて思悼世子の死について具体的に語られます。また、自身の境遇についても語られています。
思悼世子(サドセジャ)に先王・景宗の内人達を付けたことにより、英祖は必然的に東宮への足がとうのいた上、英祖が寵愛していた娘・和平翁主(ファピョンオンジュ:화평 옹주)が死に、世子に無関心となり、世子は学問もせず武芸や遊びに傾倒しました。
代理聴政も行ったものの、ことごとく英祖と対立することとなり、世子は英祖ヘの恐れから恐怖症や強迫性障害にかかり、突発的に人を殺し放蕩三昧な生活を送ります。ついに1762年(英祖38)5月、羅景彦(ナ・ギョンオン)の告変と世子の生母・迎賓(ヨンビン:영빈)の勧めで、英祖は世子を米びつに幽閉させ、9日後に絶命させたと書かれているます。
また、英祖が跡継ぎを処分したことはやむを得ないことであったし、米びつを使用するという思いつきは英祖自身がしたことであって、実家の父洪鳳漢(ホン・ボンハン:홍봉한)が主張したわけではないと綴っています。
次回の記事では閑中録(ハンジュンノク)の賛否両論有る解釈について記述していきます。
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