イ・サン

韓国ドラマ イ・サン ウィキペディアより詳しいイ・サン 第22代朝鮮王正祖(チョンジョ) 歴代朝鮮王の中で最も魅力ある正祖を、韓国時代劇イ・サンを通じて考証していきます

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ホン・グギョン追放の史実は?

      2012/10/15

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イ・サン67話。

ついに洪国栄(ホン・グギョン:홍국영)が追放されました。

そして、稀代の天才・茶山丁若鏞(チョン・ヤギョン정약용)が入れ替わって登場しましたね。

ところで、涙なしには見られなかった67話でしたが、ドラマでの描写は史実だったのでしょうか?結論から言うと史実とは違っています。いかにホン・グギョンが追放されるに至った史実を紹介します。

まず、王妃毒殺未遂事件からして史実ではなく外史による風聞ですので、それ以降の流刑や兵に見張られての蟄居はフィクションです。ただ、それに類することは起きています。

1779年(正祖3)9月26日、都承旨(トスンジ:도승지)だったホン・グギョンが突然辞表を出します。突然といっても、過去の振る舞いで他の臣下から宮女に至るまでの多くを敵に回し、イ・サンもかばいきれない状態に陥っていたため、しかたのないことでした。

イ・サンもこれを受理し、翌々日の9月28日には、引退した功臣を奉じる奉朝賀(ポンジョハ:봉조하)に封じています。これは従2品でコメや物資などの恩給が支給される年老いた功労者に贈る名誉職でした。ホン・グギョンは32歳の若さで黒頭奉朝賀(フクドゥボンジョンハ:흑두봉조하)といわれる黒髪の奉朝賀となったのです。

26日のことは朝鮮王朝実録に長文で掲載されています。この日は奇しくも世孫(セソン)だったイ・サンと初めて会ってからちょうど7年経った日だと記載してあります。承政院日記(スンジョンウォンイルギ:승정원일기)に初めてホン・グギョンの名前が登場したのは1772年9月20日ですので、彼の記憶どおりだったのでしょう。

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ホン・グギョンはしばらくは都城内にとどまっていたし、以前記述しましたが、彼の叔父・洪樂純(ホン・ナクスン:홍낙순)が右議政(ウウィジョン)から左議政(チャウィジョン)へ昇進しているなど、イ・サンは彼を完全に切ったわけではありませんでした。学説が分かれるところではありますが、イ・サンはほとぼりが覚めるまでおとなしくさせようとしたのでしょう。

しかも、当初はホン・グギョンを擁護する上訴が度々上げられていました。この状況に変化が起きるのが1780年(正祖4)2月26日のチャン・テウのモデルとも言われている吏曹判書(ジョパンソ:이조 판서)金鍾秀(キム:ジョンス:김종수)による弾劾上訴です。

要約すると「本来野蛮な性質で狡猾で、天の功をさも自分がなしたように振る舞い、王も眼中に無く、軍事やあらゆる物を私物化し賄賂も受け取り、国中の民が怒り幾年にもなる」というものでした。

そしてイ・サンは同日これに呼応し「命洪國榮, 放還田里」と、故郷に帰すように命じます。ホン・グギョンにとっては流刑に匹敵することですが、正式な流刑ではありません。

そしてこの時の記録を見ると、イ・サンは「この人(ホン・グギョン)にこんな話があるのか?」と、弾劾とその弾劾を受けて自ら命じた放還を、信じがたいものとして綴っており、2つのうちのどちらが正しいのかもわからず、このような状況は自分の至らなさから起きたものだと自分を振り返り、恥ずかしく苦しく、むしろ死んでしまいたいとまで書いています。

ただし、上訴にしろ王の回顧録にしろやたらと詩的で長ったらしいものです。特にこの記述は曖昧で抽象的で具体性を避けた書き方をしていますので、ホン・グギョンが完全な罪人となることを避けるために、放還を即決したのではないかと思われます。

ドラマでは海辺で日がな一日釣りをしていたホン・グギョンですが、実際に故郷の江原道江陵(カンヌン:강릉)近くの浜に居を設けて過ごしました。

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