イ・サン

韓国ドラマ イ・サン ウィキペディアより詳しいイ・サン 第22代朝鮮王正祖(チョンジョ) 歴代朝鮮王の中で最も魅力ある正祖を、韓国時代劇イ・サンを通じて考証していきます

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イ・サン第76話 イ・サンは清盛の施策を敢行したのか?

   

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イ・サン第76話。

前回の続きです。「上王(サンワン:상왕)になろうとしていたフシがある」ため遷都の意志はなかったという事だけは解説しませんでした。

今回はそのことについて考察していきます。

身も蓋もない話ですが、実は遷都を考えてなかったであろう記述が残っています。イ・サン考でも何度か取り上げた母・恵慶宮(ヘギョングン:혜경궁)が書いた閑中録(ハンジュンノク:한중록)です。

その中に、甲子年には母を連れて水原華城(スウォン ファソン:수원 화성)で今までできなかった両親への孝行を尽くすという記述が出てくるのです。そのため前段階として父の眠る顕隆園(ヒョンユンウォン:현융원)を移しとなると整合性も取れます。

甲子年というのは1804年にあたります。この年には世子(セジャ:세자後の純祖:スンジョ:순조)も15歳となるため、王位を譲り水原に隠居しようとしたのです。ただし、隠居といってもただの隠居とは見るべきではないでしょう。

イ・サンは幼少の頃から自身の身分と立場が不安定だったために、内心を表には表さない王でした。そのため、ある程度資料が残っている時代であっても、本心を吐露していないため、実行していないことについてはすべて憶測で考えなければなりません。ですからこれからの記述も憶測の範疇です。

 

ところで、上王(サンワン)とはなんなのでしょうか?通常王はその人生の最期まで王であることを全うしますが、自ら退位したりさせられたりして、王の位を降りることがあります。実質的に降りるといっても、名目上は上るものとして上王と呼ばれます。

朝鮮王朝の歴史の中で上王は5人います。初代太祖(テジョ:태조)、第2代定宗(チョンジョン:정종)、第3代太宗(テジョン:태종)、第6代端宗(タンジョン:단종)、第26代高宗(コジョン:고종)です。この中で、イ・サンがモデルとしたであろう人物は第3代太宗です。他の王は不本意な退位をしていますが、太宗だけは意図的に退位したからです。

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建国間もない朝鮮において王の弱体化を防ぐために上王の地位につき、4年間王の後見をしました。後見された王はあの第4代世宗(セジョン:세종)です。王というのは太陽に形容され、世に2つと無いものですが、政治的混乱期においては例外的に上王が存在しました。

このような政治体制は日本人のほうが馴染みがあるのではないでしょうか?平安末期に繰り広げられた院政がまさにそれです。日本の場合には天皇が退位して上皇とないますがニュアンスは似ています。先王が比較的余力のあるうちに退位して、臣下に対する王権の強化を推し進める政策です。

 

イ・サンは上王になるにあたって、太宗と違い少し離れた水原に離宮を築いたのですが、この前段階として直轄指揮の取れる壮勇外使(장용외사:チャンヨンウェサ)を設置しています。漢城の軍権を悪意ある臣下に奪われたとしても、それを牽制する武力があるというのは抑止力として機能します。

また、前回の解説で触れましたが、水原華城には商業基盤としての設計もなされています。このように、軍事と経済を牛耳る手法というのはどこかで聞いたことありませんか?そう、まさに平清盛が行った福原への遷都です。

清盛は王ではありませんが、外戚として上王のように振舞っていたことは周知の事実であり、武力が主体の武士でありながら、経済を牛耳ることで権勢を思いのままにした人物です。そして福原はその清盛が構想した計画都市です。

ただし、清盛は遷都ありきで都市建設を行ったのに対し、イ・サンは首都への睨みを利かすことを目的の一つとして水原華城を建設したことは規模の面からも見て取れます。華城は福原の応用版といったところでしょう。

古今東西の知識を貪るように吸収したイ・サンですからオランケと蔑んでいた国といえども、その歴史を知識として吸収していたことは十分に考えられます。おそらく先人の知恵として自国の太宗や日本の清盛を参考にしたことでしょう。

もし清盛を参考にしていたとしても、このことが表に出ることはありません。先述のようにイ・サンは言葉を飲み込むことを日常とした人でしたから。

そのイ・サンの遠大な計画は成功したのでしょうか?

次回の解説は年明けの最終回終了後となります。

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