イ・サン

韓国ドラマ イ・サン ウィキペディアより詳しいイ・サン 第22代朝鮮王正祖(チョンジョ) 歴代朝鮮王の中で最も魅力ある正祖を、韓国時代劇イ・サンを通じて考証していきます

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イ・サン第75話 華城への遷都説は本当か?

      2012/12/23

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イ・サン第75話。

ストーリーの中心は水原華城(スウォン ファソン:수원 화성)に移ります。

水原はソウルから南に35キロしか離れていない場所で、東南北への分岐点となる要所でもあります。

イ・サンはそこにある華山(ファサン)に父の墓を移し顕隆園(ヒョンユンウォン:현융원)に格上げします。〔1899年以降の隆陵(ユンルン:융릉)〕1789年10月7日に移されていますので、華城(ファソン:화성)の建設のほうがあとになります。

ファソン

華城の建設は1794年1月に開始され1796年9月初めに終わりました。当初10年はかかるのではないかと言われていたこの工事がわずか2年9ヶ月で終わったのはひとえに工事の総指揮をとった蔡済恭(チェ・ジェゴン:채제공)や朝鮮最高の天才・丁若鏞(チョン・ヤギョン:정약용)、その他の実学者の努力の賜物です。

ドラマ内でイ・サンの最側近として常にそばにいる蔡済恭ですが、実は1793年に文官の最高位領議政(ヨンイジョン:영의정)になっています。ドラマでは架空の人物であるチャン・デウがずっと朝廷のトップにいますが、このあたりの描写は史実と異なります。

また、ソンヨンこと宜嬪成氏(ウィビンソンシ:의빈 성씨)が亡くなったのが1786年ですので、74話の途中からは10年の歳月が流れていることになります。

 

さて、ここからが本題です。ドラマ内でも「遷都」という言葉がちょっとだけでてきましたが、イ・サンは華城(ファソン)への遷都を考えていたのでしょうか?

この考え方は有力な学説の一つでもあるのですが、個人的には遷都の意志はなかったと思います。否定派の意見も肯定派同様に有力な説を打ち出しており、ボクもこれを支持します。以下に華城についてのイ・サンの考えや諸条件を列記します。それを元に考察してみましょう。

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  1. 1789年、父・思悼世子 (サドセジャ:사도세자)の墓の移転
  2. 1795年、母・恵慶宮(ヘギョングン:혜경궁)の還暦祝いを華城で行う
  3. 1793年以降、壮勇営(チャンヨンヨン:장용영)を水原に駐留させる。〔壮勇外使(장용외사:チャンヨンウェサ)〕
  4. 華城に商工業・農業従事者を集める
  5. 各地方への往来の分岐点である
  6. 水原には大河がない
  7. 規模が小さい
  8. 上王(サンワン:상왕)になろうとしていたフシがある

 

〔1~5〕が華城遷都肯定論者の考えです。父母への孝行の明かしの地として水原を選び、軍を駐留させ人を集め商工業を盛んにする。確かに遷都の理由に成り得ます。

特に〔4・5〕は為政者が遷都の際によく行うことで、既得権益の坩堝と化した旧都の利権を切り離すために、新しい収益システムを新都に作るわけです。

ただし問題は〔6〕で指摘しているように水原(スウォン)には大河がないことです。朝鮮では外敵の侵入を極端に警戒した結果、道が全くといっていいほど発達しておらず、物流はもっぱら人が担いで行われるという有様でした。荷車を使った大量輸送のほうが楽なはずですが、それができない道路事情だったのです。

そのため、大量輸送となると大河が必要となるのです。朝鮮にかぎらず古今東西大河がある、または、大河と言わずとも舟の航行が可能な川のある場所が栄えるのですが、その大河が水原にはないのです。

10数キロ離れたところに海への出口があるため、運河を作ったり道路を整備するということも考えられますが、イ・サンはすでに40代半ばでした。年齢だけでなく民衆への負担を考えても、悠長な大規模工事を行う余裕はありませんでした。

そして〔7〕の離宮である水原行宮(スウォンヘングン:수원행궁)は首都機能を持つ歳の王宮にしてはあまりにも規模が小さいものだったのです。後日拡張する予定だったのではと思われるかもしれませんが、華城自体、ものすごく綿密な計画を立てて創られた城であり完成形であるため、拡張云々は考えられません。

ここまでの条件を考えてもイ・サンが首都機能移転を考えていたという可能性は低いのですが、〔8〕が決定的な証拠となりうるのです。

このお話はまた来週!(再来週かな?) 

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