朝鮮正祖・李祘 (チョソンチョンジョ イ・サン) ウィキペディアより詳しいイ・サン5 死・まとめ
2014/02/13
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1800年6月28日、49歳の時、突然の病に倒れ急死。彼の革新的な政策は時代に引き継がれること無く、その反動から勢道政治を招くこととなった。
その死については毒殺説も提起されており、南人(ナミン)の多く住む嶺南地域では、今でも有力説として信じられている。
正祖は1800年5月30日、五晦筵敎(オヘヨンギョ:오회연교)を発し、
「父・思悼世子(サドセジャ)を殺した老論を決して許すことができない」「南人を重用する」
という意志を明らかにした。そのわずか20日余りの後に急に息を引き取ったのだ。
正祖は、できモノが悪化し、その年の6月24日に、のちに議論がされている民間療法「煙薫方(ヨンフンバン)」を使用したが、一時症状が好転したものの混迷状態に陥る。この療法は、急性水銀中毒の危険性があることが知られている。
四日後の6月28日貞純王后(英祖の継妃)が周囲の者を退け、救急療法の一種である「星香正気散」を直接奉ずると、室内に入ってからいくらもたたないうちに、正祖は絶命した。
当時の礼法にも反する行為で、生涯に渡る政敵であった貞純王后(チョンスンワンフ:정순왕후)が臨終に立ち会ったという点で、疑惑はさらに大きなものとなったる。
正祖は、王大妃である貞純王后が入室する前に、彼女の居所「寿静殿(スジョンジョン:수정전)という言葉を残して意識を失った。
寿静殿(スジョンジョン:수정전)、すなわち貞純王后に注意せよという意味に解釈して、毒殺説の有力な証拠と見る人もいる。
肯定的に捉えると、遺言を授けるために、王室の長老である貞純王后をを呼んだともとることができる。
とにかく正祖が亡くなり、子の純祖(スンジョ:순조)が即位すると、貞純王后は垂簾聴政(スリョムチョンジョン:수렴청정)することで政権を掌握して正祖による数々の改革は否定され、正祖の側近は流刑とされ、復古的な政治形態に戻された。
正祖が死亡した直後、全国のいたるところに王の死に疑問を提起する匿名の壁書が貼られ、全羅南道康津に流刑となった丁若鏞は著書「與猶堂全書(ユヤダンチョンソ:여유당전서)」に、毒殺という表現を残している。
朝鮮王朝実録に毒殺について触れている箇所がないため、現在では毒殺でないことが通説とはなっているが、事実は未だにわかっていない。
老論との葛藤が後日、文学・映像などの素材となり、朝鮮王としての人気を第4代世宗(세종:セジョン)とニ分している。
在位期間中、王権強化のため中央集権化に注力し、親衛部隊の壮勇営(チャンヨンヨン:장용영)の創設、自身の著書で文集の弘齋全書(ホンジェジョンソ:홍재전서)や法典の再刊行、水原(スウォン:수원)華城(ファソン:화성)築城などを推進した。
武芸とともに儒学の各経典にもあまねく精通しており、文武両道の朝鮮後期中興の祖として評価されている。
また、書画共に優れており、朝鮮のルネサンス期を形成したのも、彼自身の素養によるものだ。
丁若鏞(チョン・ヤギョン:정약용)は彼の著書で正祖の優れた人格について記している。
「女性を近くに置くこともせず、内侍達も近くに置かず、狩りも楽しまず、贅沢も好まず、ひたすら学問に励む臣下だけを大切に思い、また、性分があたたかく穏やかで、王だということで癇癪を起こしたり大声を出すことがなく、どの臣下も王の前で虚心坦壊に話をする。」
本来の廟号は正宗(チョンジョン:정종)で、諡号は正宗文成武烈聖仁荘孝大王(チョンジョンムンソンムヨルソンインジャンヒョデワン:정종문성무열성인장효대왕)だが、1899年に高宗(コジョン:고종)により、父・思悼世子に荘祖(チャンジョ:장조)の廟号が追尊されたため、それに伴い正祖(チョンジョ:정조)となった。
尊号は荘徽(チャンフィ:장휘)
清から下された諡号は恭宣王(コンソンワン:공선왕)で、陵は父・思悼世子のそば、水原の健陵(コンルン:건릉)
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