韓国歴史年表イ・サン編
2012/12/23
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イ・サン68話ごろの史実の歴史年表です。
ドラマではものすごく前後していて整合性が取れていないうえ、どのぐらい時間の感覚があるのかもわからないため、史実バージョンで掲載しています。
状況把握の一助になればと思います。
- 1772年(英祖48)9月20日 イ・サン、洪国栄(ホン・グギョン:홍국영)と出会う
- 1776年(正祖即位年)年3月5日 英祖(ヨンジョ:영조)死去
- 1776年(正祖即位年)年3月10日 イ・サン、王に即位
- 1776年(正祖即位年)年7月5日 洪麟漢(ホン・イナン:홍인한)、鄭厚謙(チョン・フギョム:정후겸)賜死
- 1776年 奎章閣(キュジャンガク:규장각)の設置
- 1777年(正祖1)7月28日 宮内に賊が侵入する(後に刺客と言い換える)
- 1777年(正祖1)10月? 異母兄弟の恩全君(ウンジョングン:은전군)賜死
- 1777年(正祖1)11月15日 宿衛所(スギソ/スグィソ:숙위소)の設置し、大将に洪国栄を任命
- 1778年(正祖2)5月2日 貞純王后(チョンスンワンフ) 後宮揀擇(カンテク)問題に介入
- 1778年(正祖2)6月21日 洪国栄の妹・洪氏が嬪に冊封される。→元嬪洪氏(ウォンビン ホンシ:원빈 홍씨)
- 1778年(正祖2)6月27日 イ・サンが元嬪洪氏と嘉禮(カレ:가례)を挙げる
- 1779年(正祖3)3月27日 李德懋(イ・ドクム)、柳得恭(ユ・ドゥッコン)、朴齊家(パク・ジェガ)らを奎章閣検書官(キュジャンガク コムソグァン:규장각 검서관)に任命
- 1779年(正祖3)5月7日 元嬪洪氏死去
- 1779年(正祖3)9月26日 洪国栄が辞意を表明しすべての官職から退く
- 1779年(正祖3)9月26日 イ・サンが洪国栄を奉朝賀(ポンジョハ:봉조하)に封じる(恩給付きの名誉職)
- 1779年(正祖3)10月8日 宿衛所(スギソ/スグィソ:숙위소)廃止
- 1780年(正祖4)2月26日 金鍾秀(キム:ジョンス:김종수)が洪国栄への弾劾上訴を行い、同日イ・サンは洪国栄を漢城から出し故郷に帰すように命じる
- 1780年(正祖4)3月10日 尹氏が嬪に冊封される→和嬪尹氏(ファビン ユンシ:화빈윤씨)
- 1780年(正祖4)3月12日 イ・サンが和嬪尹氏と嘉禮を挙げる
- 1781年(正祖5)1月17日 和嬪のために産室庁(サンシルチョン:산실청)を設置
- 1781年(正祖5)4月5日 洪国栄(ホン・グギョン)死去
- 1782年(正祖6)8月26日 朝鮮王朝実録に初めて成氏(ソンヨンのモデル)が登場する
- 1782年(正祖6)9月7日 王子・李㬀(イ・スン:이순)誕生
- 1782年(正祖6)12月28日 成氏を昭容(ソヨン:소용)に封じる
- 1783年(正祖7)2月19日 昭容成氏が嬪となる→宜嬪成氏(ウィビンソンシ:의빈 성씨)
- 1783年(正祖7) 丁若鏞(チョン・ヤギョン:정약용)、22歳で科挙の小科・進士試に合格し成均館に入学
- 1784年(正祖8)3月20日 成氏、娘を出産(夭折)
- 1784年(正祖8)7月2日 元子となっていた李㬀が王世子(ワンセジャ:왕세자)となる
- 1785年(正祖9)7月2日 壮勇衛(チャンヨンウィ:장용위)を設置(命名)
- 1786年(正祖10)5月3日 王世子が風疹にかかる
- 1786年(正祖10)5月11日 王世子死去 享年5歳
- 1786年(正祖10)9月14日 宜嬪成氏(ウィビンソンシ)死去 享年34歳
- 1789年(正祖13) 丁若鏞(チョン・ヤギョン:정약용)、28歳で科挙の大科・式年文科(シキニョンムングァ:식년문과)に甲科(トップ3)で合格し官職を得る(初めて実録に登場)
- 1789年、父・思悼世子 (サドセジャ:사도세자)の墓の移転
- 1795年、母・恵慶宮(ヘギョングン:혜경궁)の還暦祝いを華城で行う
- 1793年以降、壮勇営(チャンヨンヨン:장용영)を水原に駐留させる。〔壮勇外使(장용외사:チャンヨンウェサ)〕
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