奴婢を開放したのはイ・サンではなかった!
2014/02/13
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ここのところ奴婢解放に注力しているイ・サン。
ドラマ内ではあたかもイ・サンの聖君としての力量がなせる技のように描かれていますが、はたしてそうだったのでしょうか?
結論から言うと、イ・サンのオリジナルプランというわけではなく、時代の要請でした。
まず、奴婢(ノビ:노비)について、特に公奴婢について少し説明します。
奴婢には公奴婢(コンノビ:공노비)と私奴婢(サノビ:사노비)とがあります。両者は読んで字のごとく公のものと私のもので、漢城(ハンソン:한성)で官庁などに勤めているのは公奴婢で、両班の下働きをしているのが私奴婢です。ソンヨンのモデルとなった宜嬪成氏(ウィビンソンシ:의빈성씨)もこの公奴婢出身です。
公奴婢の中には王室の財産を管理する内需司(ネスサ:내수사)所属の宮奴婢(クンノビ:궁노비)と、他の官庁に所属する官奴婢(カンノビ:관노비)がいました。また、労働を貢納する選上奴婢(ソンサンノビ:선상노비)と、主に王室の土地で耕作する納貢奴婢(ナプゴンノビ:납공노비)とに分かれます。16歳から60歳まで働く義務がありました。選上奴婢は国から俸給を受け、納貢奴婢は基本的に耕作物の半分を国に収め残りを自分のものとしました。
第14代宣祖(ソンジョン:선조)と第16代仁祖(インジョ:인조)の治世に起きた1600年を挟んだ日本と清の侵略により、それまでの制度が崩壊し、奴婢にも身分上昇の機会が与えられます。実際に、第21代英祖(ヨンジョ:영조)は1745年(英祖21)に続大典で一定の金銭か米を収めることで免賤され良民となることができると法制化されました。それまでも法制化されてないだけで、同様の方法で免賤されていました。
大邱(テグ)に残っている記録を見ると両班(ヤンバン)・常民(サンミン)・奴婢(ノビ)の比率を見ると、その変化が顕著なことがわかります。単位は%です。
- 第19代粛宗(スクチョン:숙종)代1690年 両班9.2 常民53.7 奴婢37.1
- 第21代英祖(ヨンジョ:영조)代1729年 両班18.7 常民54.7 奴婢26.6
- 第22代正祖(チョンジョ:정조)代1783年 両班37.5 常民57.5 奴婢5.0
- 第25代哲宗(チョルジョン:철종)代1858年 両班70.3 常民28.2 奴婢1.5
地域差があるためこれが全国的な数字というわけではないですが、とにかく両班が激増して奴婢が激減しているのがわかると思います。
また、第17代孝宗(ヒョジョン:효종)代の1655年に公奴婢(コンノビ)として記録されている19万人を捕捉する大々的な調査が行われました。このとき実際に国家の仕事に従事していた公奴婢は2万7千人で、約16万人は逃亡か身分詐称していました。結局さらに補足できたのは1万8千人だけでした。このことからも、朝鮮末期には身分制度がなし崩しになっていたことがわかります。
このような状況下では奴婢制度を維持しても意味がなく、1801年に奴婢の名簿が焼却され、大部分の奴婢が解放されました。(奴婢世襲が廃止されたのは1886年(高宗23))
ここでカンの言い方なら「あっ!」と、声が出たかもしれません。イ・サンは1800年に亡くなっていますので1801年というのは息子の第23代純祖(スンジョ:순조)の治世です。しかも、純祖は幼かったため、王室の長老の代理聴政(テリチョンジョン:대리청정)を受けていました。その人こそ、あの貞純王后(チョンスンワンフ:정순왕후)なのです。
嘘のような本当の話で、歴史上の事実としては貞純王后が奴婢開放の口火を切ったと言えるのです。もっとも、先述したように時代の要請ですが。
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