イ・サン

韓国ドラマ イ・サン ウィキペディアより詳しいイ・サン 第22代朝鮮王正祖(チョンジョ) 歴代朝鮮王の中で最も魅力ある正祖を、韓国時代劇イ・サンを通じて考証していきます

和緩翁主(ファワンオンジュ)の生涯

   

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和緩翁主(ファワンオンジュ:화완옹주)は1737年に生まれました。没年は不明ですが1808年ではないかと言われています。

英祖(ヨンジョ:영조)の後宮・暎嬪 李氏(ヨンビン イシ:영빈 이씨)が母で1男5女の末っ子でした。すぐ上には2歳年上の思悼世子(サドセジャ:사도세자)がおり、二人は同じ母を持つ実の兄弟姉妹でした。

1749年3月に彼女が13歳の時、鄭致達(チョン・チダル:정치달)と結婚しました。最終的に英祖の寵愛を一心に受けることになりましたが、当初は相手にされませんでした。風向きが変わったのは、英祖の寵愛をもっとも受けていた長女・和平翁主(ファピョンオンジュ:화평옹주)が1749年に、そして4女・和協翁主(ファヒョプオンジュ:화협옹주)が立て続けに亡くなり、女児が彼女しかいなくなってからです。

それ以降、嫁いでいたにも関わらず宮廷に部屋を持ち、宮廷の法やしきたりを超えた存在になりました。

夫と生き別れたのち、1764年、28歳の時に仁川(インチョン)で漁業(または鮮魚店)に従事していた遠縁の16歳の鄭厚謙(チョン・フギョム)を、亡き夫の養子としました。

単純に漁業従事者を両班(ヤンバン:양반)の養子にできるのか?という疑問を抱くかもしれませんが、チョン・フギョムの家門は没落両班だったのでしょう。両班の家門でも、3代に渡り科挙の合格者がでない場合には両班としてみなされなくなり、一般の良人(ヤンイン:양인)となります。そのような家門の多くは商売などに従事しました。

家門自体は両班ですので、科挙にさえ受かれば復権できます。チョン・フギョムは科挙に合格しているため、両班としての体裁には全く問題がありませんでした。

 

さて、ここからがミステリーです。

思悼世子(サドセジャ:사도세자)は1762年5月21日(旧暦)に米びつの中で死亡が確認されました。その死の一端を和緩翁主(ファワンオンジュ)が担っているとされていますが、実のところ明確な理由がわかっていません。

権力を欲したからというのが体のいい理由ですが、チョン・フギョムを養子に迎える前の未亡人に確固たる権力欲があったのでしょうか?

この疑問の答えとして、宮廷研究の第一人者故キム・ヨンスク先生は「近親相姦の可能性」を示唆しています。その論拠までは確認できませんでしたが、実はボクも同意見です。その理由は3つ。

  1. 夫・鄭致達(チョン・チダル)の家門は老論(ノロン:노론)ではなく有力な少論(ソロン:소론)であるため、党色を変えるほどの強烈な理由があったこと。
  2. 思悼世子(サドセジャ)の死の引導を渡した家の一人が、二人の母・暎嬪 李氏(ヨンビン イシ)だったこと。
  3. 英祖の怒りが世子を死なせるほど尋常ではなかったこと。

この3つを説明できる整合性の取れる理由は近親相姦による恨みではないかと思うのです。かつて、母親の恵嬪(ヘビン:혜빈)が嫉妬するほどイ・サンをかわいがっていた和緩翁主(ファワンオンジュ)の態度が一変したのも、兄への恨みと憎しみのためと考えれば説明がつきます。

 

その後は周知のように1776年、義理の息子鄭厚謙(チョン・フギョム)とともに謀反の罪に問われます。彼女は廃庶子(ペソイン)とされ、流刑の身となります。

それが許されたのはイ・サンが亡くなる前年の1799年(正祖23)3月4日のことでした。翁主の号も回復し、再び宮廷で暮らし始めました。それ以前も以後も、何度も弾劾を受けましたが、イ・サンは先王の愛した娘でサン自身の伯母を死刑にすることはありませんでした。この方針は息子・純祖にもひきつがれました。

1808年5月17日の純祖実録に三司による「鄭致達(チョン・チダル)の妻が死んだため、これ以上罪は問わない」との記録が残っています。このため彼女は1808年以前に亡くなったと言われています。

ここで重要なのは「鄭致達(チョン・チダル)の妻」という表現です。イ・サンが彼女を許すときにも同じ表現が使われているのですが、この表現の時には翁主号が無いことを意味しています。おそらくは、イ・サンの死後、命までは奪われないまでも再び身分を落とされたのではないかと思われます。王族の墓地にではなく、流刑地近くに墓があることからも、それがうなずけます。

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