ソンヨンとイ・サンの婚礼は史実?
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イ・サン第62話。ついにイ・サンとソンヨンが婚礼を挙げるに至りました。
イ・サンフリークの中でも人気の高い回なので、ツッコミを入れるのもはばかられますが、史実への軌道修正が当サイトのテーマですので、ここはしっかりと指摘していきたいと思います。
他では紹介されていない情報も付加しますので許してください!
結論から言うとソンヨンとイ・サンの婚礼は史実ではありません。
まず、ソンヨンですが、正祖・李祘 (チョンジョ イ・サン:조선 정조 이산)の後宮の一人である宜嬪成氏 (ウィビンソンシ:의빈 성씨)がモデルになっていることは周知の事実かと思います。
彼女はドラマのように図画署(トファソ:도화서)に所属していたわけではなく、実際には宮女でした。一説には和嬪尹氏(ファビン ユンシ:화빈윤씨)の世話をしていたと言われています。尹氏は1780年3月10日に冊封され、翌々日の3月12日に嘉礼/嘉禮(カレ:가례)を挙げています。嘉礼とは狭義には王や王の嫡出子の婚礼をあらわします。
和嬪尹氏はもうすぐドラマにも登場しますが、その状況を考えるとイ・サン第62話は1779年から1780年前半ということになります。もし、ドラマのようにイ・サンとソンヨンの嘉礼(カレ)が行われていたなら、朝鮮王朝実録にその事実が記載されているはずです。けれども、そんな記述はどこにもありません。
それもそのはず、最初に結論で述べたように婚礼は行われていないのです。これにはソンヨンのモデルとなった成氏の身分が大きく関わってきます。
成氏が宮女だったことは前述しましたが、宮女は入宮後10~15年経つとようやく一人前の内人(ナイン/ネイン)として認められます。この時、男性が成人式である冠礼を上げるように、宮女は女性の成人の儀式である筓禮(ケレ:계례)を行いました。これは、下ろしていた髪をあげ、かんざしを挿す儀式です。
宮女がこの儀式を行うことは、王と婚姻関係を結んだことを意味します。宮女が王の女と呼ばれる所以はここからきています。傍らに夫のいない婚礼を挙げる宮女の心境はどんなものだったのでしょうか。
このことからもわかるように、宮女はすでに王との婚姻を済ませているため、のちにお手つきになったとしても改めて婚礼を行うことはないのです。また、王が宮廷外の官庁に所属する女性に手をつけることも基本的にはありえません。
成氏が実録に初めて登場するのはドラマの設定年代より2年以上後の1782年8月26日です。もちろんこの時始めてイ・サンと関係を持ったのではなく和嬪尹氏(ファビン ユンシ)の宮女説を取ると、1780年か遅くとも1781年にはお手つきになっていたものと思われます。このとき成氏は30歳目前ですから、当時の常識から考えて、イ・サンは年増好みだったと言えます。
通常、王のお手つきになると承恩尚宮(スンウンサングン:승은상궁)となるのですが、成氏は後宮以外の宮女の最高位である尚宮(サングン:상궁)ではなく、同じく正五品(チョンサプム:정5품)ながらも、その下位の尚儀(サンウィ:상의)の身分でした。これについて解説する史料もないため理由は定かではありません。
余談ですが、この婚礼シーンが撮影されたのは、のちにイ・サンが造営する水原華城(スウォンファソン:수원화성)内にある華城行宮(ファソンヘングン:화성행궁)の長楽堂(チャンナッタン:장락당)です。扁額が迎春軒(ヨンチュンホン:영춘헌)に変えられていましたね。※行宮=離宮
この迎春軒(ヨンチュンホン)は本宮の昌徳宮(チャンドックン)に隣接する昌慶宮(チャンギョングン:창경궁)の内殿で、イ・サンにとっても縁の深い場所です。1735年(英祖11)には父・思悼世子(サドセジャ:사도세자)がここで生まれ、1790年(世祖14)には息子の純祖(スンジョ:순조)が生まれた場所であり、1800年にはイ・サン自身が息を引き取った場所でもあります。また、後年は好んでここで寝食を行い、おそらく父を思い、雨漏りがしても直さなかったほどのお気に入りの場所でした。
残念ながら1830年(純祖34)に焼け落ち4年後の1834年に再建したためにイ・サンの残り香も昇華してしまったのですが、イ・サンが愛したこの場所を、純祖は父を忍び再建したに違いありません。
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