イ・サンの死後は朝鮮の不幸の始まりだった!
2014/01/25
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イ・サンの死去により、1800年7月4日、わずか11歳の幼い世子(セジャ:세자)玜(コン:공)が王位につく。
この時幼い王を輔弼するために王族の最高位の者が垂簾聴政(スリョムチョンジョン:수렴청정)を行った。
王大妃(ワンデビ)となった孝懿王后(ヒョウィワンフ キムシ:효의왕후 김씨)であれば、悲劇は起きなかったかもしれないが、朝鮮にとっては最悪なことに貞純王后 金氏(チョンスンワンフ キムシ:정순왕후 김씨)が存命だった。そして、大王大妃(テワンデビ)となった彼女がすだれの後ろから政権を掌握することとなる。
貞純王后はイ・サンの死後すぐに朝廷の要職を老論僻派(ノロンピョッパ:노론벽파)で固める。そして、思悼世子(サドセジャ:사도세자)事件も五晦筵教(オヘヨンギョ:오회연교)も、全て自分たちの都合の良いように解釈することで、正当性を主張した。
1801年(純祖1)、カトリック教徒に対する大粛清・辛酉迫害(シンユバケ:신유박해)が起きる。イ・サンは天主教と西学などの新しい知識とが密接に関連している実利を取り、あえて迫害することはなかった。そのため、南人(ナミン)には天主教に入信している者や近いものが多くいた。
老論僻派の政敵である南人と時派に壊滅的打撃を与えるためには天主教を邪教認定して命を奪えばよかったのだ。また、関係なくても関係をでっち上げ亡き者にしてしまうこともできた。このような意図から挑戦で初めてのキリスト教迫害の殉教者は300人に上った。
その中には、南人の指導者的存在の李家煥(イ・ガファン:이가환)を始め丁若鏞(チョン・ヤギョン:정약용)の兄・丁若鍾(チョン・ヤクチョン:정약종)、イ・サンの異母弟・恩彦君(ウノングン:은언군)とその妻・宋氏、嫁の申氏もいた。丁若鏞も流刑となり、南人の勢力はこれで完全に失墜する。
1801年には公奴婢(コンノビ)開放も行われた。一見、人道的であり先進的な政策に見えるが、イ・サン の存命中は開放を行うつもりはなかったと見られる。老論僻派(ノロンピョッパ)の再三の上訴を南人政権やイ・サンは跳ね返している。
なぜなら、公奴婢は王権を支える重要な収入源だったからだ。当時、逃亡などにより6万人ほどに減少していたとはいえ、公奴婢の労働力は無視できないものだった。逆に、老論僻派は公奴婢開放により、王権の弱体化を図ったわけだ。
公奴婢が担っていた王族の財政は、その後、壮勇営(チャンヨンヨン:
余談だが、ドラマでは壮勇営に所属するテスは純祖(スンジョ)と和やかに会話していた。けれど、その後のテスはきっと絶望の淵をさまよっていたに違いない。彼が実在の人物でないことは、ある意味救いでもある。
政権運営の主導権争いは老論僻派(ノロンピョッパ)の圧勝かと思われた。宿敵の南人(ナミン)も壊滅状態だ。けれども、老論時派(ノロンシパ:노론시파)には金祖淳(キム・ジョスン:김조순)がいた。イ・サンの生前、彼の娘は揀擇(カンテク:간택)により世子嬪(セジャビン:세자빈)の内定を得ていたのだ。
彼は、イ・サンの決定を盾に王の母方の実家朴氏と共闘し、1802年9月に娘を入宮させることに成功する。当時の世子(セジャ:세자)はすでに王となっていたため、中殿(チュンジョン:중전)としての入宮だ。彼女が純元王后(スンウォンワンフ:순원왕후)だ。
そして彼は、1803年12月、貞純王后(チョンスンワンフ)の垂簾聴政(スリョムチョンジョン)を終わらせることに成功し、その後60年続く勢道政治が幕を開ける事になる。こうして激しい闘争を繰り返した朋党(プンダン:붕당)政治は幕を閉じる。
その後の朝鮮はもはや国の体をなしてない末期症状のまま100年ほど延命を続ける。もし、イ・サンがあと10年長生きして、息子・純祖(スンジョ:순조)との2重権力体制を維持できていれば、王権も適度に強化された上に、丁若鏞(チョン・ヤギョン)ら革新的南人が政権を掌握し更に発展していたに違いない。
純祖自身もイ・サンに似て向学の虫だったため、基盤を形成できていればイ・サンの改革を踏襲できていたことだろう。
※次週から始まるトンイについては、トンイ考とトンイ考2 チャン・ヒビンとの戦いで、すでに解説していますが、後者のほうで補足もしていきます!
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