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韓国ドラマ イ・サン ウィキペディアより詳しいイ・サン 第22代朝鮮王正祖(チョンジョ) 歴代朝鮮王の中で最も魅力ある正祖を、韓国時代劇イ・サンを通じて考証していきます

朝鮮正祖・李祘 (チョソンチョンジョ イ・サン) ウィキペディアより詳しいイ・サン3 政治 奎章閣(キュジャンガク)

      2014/04/25

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奎章閣(キュジャンガク:규장각)

即位と同時に慶熙宮(キョンヒグン:경희궁)から昌徳宮(チャンドックン:창덕궁)に本宮を移し、奎章閣(キュジャンガク:규장각)制度を施行。王宮敷地内の後苑に書物を保管するための2階建てのの宙合楼(チュハプル:주합루)、西庫(ソゴ:서고)、閱古館(ヨルゴグァン:열고관)など各種書庫を作り、文治王政を展開するための準備を行った。内閣(ネガク:내각)とも呼ばれる。

学問中心の政治を意味する右文之治(ウムンジチ:우문지치)と、作り出すことにより発展を図るという意の作成之化(チャクソンジファ:작성지화)を2大名分とした。

キュジャンガク2

芙蓉池(プヨンジ:부용지)と宙合楼(チュハプル)

 

設立の表向きの動機は王立図書館だった。歴代王の詩文・親筆・書画・顧命などを保管した。第7代世祖(セジョ:세조)に一時的に設立されたものの廃止され、第19代粛宗(スクチョン:숙종)代には宗簿寺に御製・御筆を保管する目的でも設立されたがこれも廃止された。その前例があったものを正祖が確立した。

けれども、実際には王権強化のためのシンクタンクとして機能させ、王権や政治を揺るがしていた外戚や宦官を牽制・弱体化させ、各官庁の機能麻痺の是正や党派間闘争による弊害を解消させる狙いがあった。(後述)

定員4名の検書官(コムソグァン:검서관)には庶孼(ソオル:서얼)も登用し、母の身分が低いため蔑まれていた彼らに門戸を開いた。初代の4人には柳得恭(ユ・ドゥッコン:유득공)、徐理修(ソ・イス:서이수)、李德懋(イ・ドクム:이덕무) 、朴齊家(パク・チェガ:박제가)が登用された。また、親衛勢力の形成にも寄与した。

 

祖父・英祖(ヨンジョ)とは異なり外戚を遠ざけ、能力と学識にあるものは積極的に登用し、周辺を固めていった。とくに王世孫の時代からの腹心・洪国栄(ホン・グギョン:홍국영)を重用し、王の秘書である都承旨(トスンジ:도승지)や一時的に設置された王の護衛部隊である宿衛所(スギソ:숙위소)隊長などの要職を次々と任せた。

しかし、洪国栄は次第に臣下の専横である勢道政治(セドチョンチ:세도정치)に走り、1778年、妹を元嬪(ウォンピン:원빈)として後宮に送り込むなどした。

そして、妹の死に対し孝懿王后(ヒョエワンフ:효의왕후)を逆恨みし、毒殺を謀った。1780年、遂には追放され、1781年、江陵で失意のうちに死んだ。

即位して5年経った1781年、奎章閣(キュジャンガク:규장각)制度を改変。王政遂行の中心機関とした。それに伴い官庁の建物で最も大きいかつての都摠府(トチョンブ:도총부)に移転した。場所は仁政殿の西側にある弘文館(ホンムングァン:홍문관)よりさらに西側で昌徳宮の外壁沿いだ。

1782年には書籍の印刷や頒布を行う校書館(キョソグァン:교서관)を外閣とし、内閣である奎章閣を補足する機能をもたせた。また、江華島に江華史庫(カンファサコ강화사고) という別庫を新設し江都外閣(カンドウェガク:강도외각)とした。

そして内閣では西庫(ソゴ:서고)に朝鮮の本を、閱古館(ヨルゴグァン:열고관)には中国から輸入した本を蔵書とした。また、正祖自身が幼少のおりから図書室としていた皆有窝(ケユワ:개유와)にも中国の本を蔵書した。総数は8万冊にのぼった。現在に続くソウル大学校奎章閣の蔵書3万冊の礎となっている。

キュジャンガク4

一連の流れの中で奎章閣が重要業務を担うことにより、承政院(スンジョンウォン:승정원)や弘文館(ホンムングァン:홍문관)・芸文館(イェムングァン:예문관)などの有力臣下の集まる官庁の実権を弱体化させ王権を強化させるに至った。

実際に秘書日記として王の一挙手一投足を記していた承政院日記よりも内閣日記(ネガクイルギ:내각일력)のほうが、王の行動について刻銘に記されるようになった。

構成員(閣臣)は従1品~従2品の提学(チェハク:제학)2名、従2品または正3品堂上官の直提学(チクジェハク:직제학) 2名、正3品~従6品の直閣(チクカク:직각) 1名、正7品~正9品の待教(テギョ:대교)1名、正規職ではない雑職の5~9品の検書官(コムソグァン:검서관)4名。

閣臣はこののち文翰の要職を兼ねながら、抄啓文臣(チョゲムンシン:초계문신)の育成や、講製(カンジェ:강제)も主管した。この制度は敵だらけだった正祖の側近を増やすことにもつながった。

文臣講製節目(ムンシンカンジェチョルモク:문신강제절목)に規定されているこの制度は、党派を超えて37歳以下の文臣の中から優秀なものを選抜し、職務を免除した上で月に2回の口述試験(講)と月に一回の筆記試験(製)を科した。

正祖自ら講義を行うこともあり、試験を出題したり採点をしたりもした。出題科目は儒教であったが、空理空論を廃し真理を追求させた。40歳になると卒業させ、その能力を国政に反映させた。

党派を超え同じ場所で学ばせることで、党色を超えた活発な議論と相互理解が多少なりとも進んだことが推察される。また、人選も党色を全面に出すものよりも、政治に対して真摯なものが選ばれた。

1800年までの約20年間に、138人が選抜され、その中には稀代の天才・丁若鏞(チョン・ヤギョン:정약용)などを輩出している。
文班の要請とともに、兵権の掌握も王権強化には欠かせないものだった。

武班の要職の宣伝官(ソンジョンガン:선전관)講試(カンシ:강시)制度も共に施行して、1783年には壮勇衛(チャンヨンウィ:장용위)、1791年には改変し壮勇営(チャンヨンヨン:장용영)など親衛軍営を創設、軍事力の基礎とした。

権力から排除された少論(ソロン:소론)南人(ナミン:남인)を登用。 実父・思悼世子の死と関連した老論僻派(ノロンピョッパ:노론벽파)とは政治的に対立することもあったが、祖父英祖の時代から試みられていた派閥融和政策である蕩平策(タンピョンチェク:탕평책)を推進。老論僻派の金鐘秀(キム・ジョンス:김종수)沈煥之(シム・ファンジ:심환지)なども寵愛して側近として置くなどした。

また、清貧で名分や節義を重んじるいわゆる清流(チョンニュ:청류)といわれる人物を幾人も登用した。

 

正祖は先代の英祖の治世から始まった文物制度の補完および整備作業を継承し完結させた。

また、師匠の立場で臣下らを養成・教育している。庶人も起用した。 特に南人学者を優待して朱子学の空理空論をかざすな学風を排撃し、実用性を重要視する実学が大きく発展させた。

南人学者の代表者は水原(スウォン:수원)華城(ファソン:화성)築城に寄与した稀代の天才・丁若鏞(チョン・ヤギョン:정약용)がいる。

中国の先進文化に学ぶ北学派(プカクパ:북학파)には、熱河日記(ヨライルギ:열하일기)の作者でもある朴趾源(パク・ジウォン:박지원)、その弟子の柳得恭(ユ・ドゥッコン:유득공)李書九(イ・ソグ:이서구)、後述の李德懋(イ・ドクム:이덕무) 、朴齊家(パク・チェガ:박제가)などがいる。

 

他方、漢城に集中する権力や利権の打破のため、積極的に地方の人材発掘を行った。このことは、水原(スウォン:수원)華城(ファソン:화성)への遷都計画とも連動することだ。(※遷都説もあるが否定説もある)

さらに、近畿南人の領袖で側近の蔡済恭(チェ・ジェゴン:채제공)の主導のもと、通共発売政策(トンゴンパルメジョンチェク:통공발매정책)が敢行され、御用商人の六矣廛(ユギジョン:육의전)をのぞき、既存商人にのみ許可されていた商行為権である禁乱廛権(クムナンジョンゴン:금난전권)を廃止し、無許可で商行為を行なっていた商人である乱廛(ナンジョン:난전)にも正式に商行為を許可した。この政策により、流通環境が飛躍的に活性化した。

これら一連の改革の代表的な代表的なものに1791年(正祖15)の辛亥通共(シネトンゴン:신해통공)がある。

 

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