洗草(セチョ)の真意とは?
2014/02/13
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洗草(セチョ:세초)
イ・サン第43話では思悼世子(サドセジャ:사도세자)について書かれた不都合な記載を消去するという主旨で洗草(セチョ)が行われました。
これ自体は史実なのですが、この洗草(セチョ)はレアケースで一般的なものではありませんでした。
通常の洗草(セチョ)と英祖代の洗草(セチョ)はそれぞれどのようなものだったのでしょうか?
字を見ると洗草(セチョ)は「草を洗う」となりますが、読んで字の如くです。1616年(光海君8)に宣祖(ソンジョン:선조)実録を編纂した後にはじめられました。
朝鮮王朝実録を編纂するために、史官(サグァン:사관)は日々王の言動を記録しています。これを史草(サチョ:사초)といいます。また、編纂過程で初草(チョチョ:초초)・中草(チュンチョ:중초)・正草(チョンチョ:정초)といった草稿が作られます。
その後最終的に活字印刷されるのですが、その後には全ての草稿を水で洗い墨を流しました。このことを洗草(セチョ)というのです。
目的は2つです。1つには当時貴重品だった紙のリサイクルという物理的理由です。もう1つは草稿を残しておくことが禍根にならないように、正史以外を抹消したためです。もし、草稿が残ったままだと謀反や権力闘争に利用されかねないからです。
前者の主旨よりは、後者の重要な国家機密の廃棄がより重要でした。
洗草(セチョ)は彰義門(チャンウィムン:창의문)の外にある造紙署(チョジソ:조지서)近くの洗剣亭(セゴムジョン:세검정)の小川で行われました。続いて、近くの遮日巌(チャイラム:차일암)で洗草宴(セチョヨン:세초연)という宴が開かれました。これは実録編纂に携わった官吏達へのねぎらいのためです。
さて、それでは、英祖代の洗草(セチョ)はいったいどういったものだったのでしょうか?
通常であれば王の死去後に実録の編纂が開始されるのですが、英祖代の洗草(セチョ)は存命中に、しかも当の王自らの下命で行われたところが特筆すべき点です。このようなことは後にも先にもこの時だけです。
洗草(セチョ)を下命したことは英祖実録に記されています。1776年(英祖52)2月4日の記述ですので、英祖が昇遐する約1ヶ月前のことです。
要約すると英祖(ヨンジョ:영조)は以下のように言っています。
「秘史はまだしも承政院日記(スンジョンウォンイルギ:승정원일기 )は賤民の耳目にさえ集まるものだ。墓の中で思悼世子(サドセジャ)が涙ぐむことであろう。どうして記録を残すことができようか!承旨(スンジ:승지)と注書(チュソ:주서)それぞれ一人に遮日巌(チャイラム:차일암)で洗草(セチョ)させなさい。また、世孫は明日垂恩墓(スウンモ:수은묘)に行ってで祭礼を行いなさい」
実録とともに朝鮮の歴史を語る上での第一級史料・承政院日記。その思悼世子に関する不適切な記述、或いは英祖にとって不都合な真実の全てが消去されることとなりました。
このため、現在では史書としては信ぴょう性が乏しい恵嬪(ヘビン:혜빈)による閑中録(ハンジュンノク:한중록)しか、思悼世子周辺の歴史を紐解く史料が残されていません。
翌日の2月5日、イ・サンは英祖の下命どおり父の眠る垂恩墓に拝礼しました。ドラマでは母・恵嬪(ヘビン:혜빈)が行っていますが、実際にはイ・サンと他の王族・臣下、そして鄭厚謙(チョン・フギョム:정후겸)が行きました。
事実は小説より奇なりです!
※彰義門(チャンウィムン:창의문)=紫霞門(ジャハムン:자하문)
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