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元嬪(ウォンビン)の死、その史実は?

      2012/07/23

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イ・サン第59話。

前回の記事で「5月7日には大変なことが起こる」と、予告しましたが、まさにそれが元嬪洪氏(ウォンビン ホンシ:원빈 홍씨)の死でした。

1779年(正祖3)5月7日の正祖実録には「元嬪洪氏卒 上擧哀於熙政堂 百官助哀宣化門外」とあります。読み下すと「元嬪洪氏が亡くなった。王が熙政堂で擧哀を行った。文武百官は宣化門の外で助哀を行った。」となります。

熙政堂(ヒジョンダン:희정당)は昌徳宮(チャンドックン)内の王の住まいで、擧哀(コエ:거애)とは、声を出して悲しみを表す哭泣(コグプ:곡읍)の礼の事を言います。「アイゴー・アイゴー」と悲しい声を出すのがそれです。助哀(チョエ:조애)も同じで、喪主にあわせて行うことです。

以前にも紹介しましたが、元嬪(ウォンビン)が悪女として描かれているのはドラマ特有の描写です。無くなる前の実録の記録は、1778年6月21日に元嬪(ウォンビン)という爵号与えたことと、同月27日に婚礼の儀に当たる嘉禮(カレ:가례)を行ったことしか書かれていません。そして、1年足らずで亡くなったことが記載されているだけなのです。

ここで面白いのが、同じ記事に兄・洪国栄(ホン・グギョン:홍국영)の悪口が書かれていることです。

彼はこの時点での横暴も甚だしく、一介の嬪(ピン:빈)である元嬪(ウォンビン)の葬礼に、王族の格式で葬式を行うべく三都監(サムトガム:삼도감)を設置し、仁明(インミョン:인명)という園号(ウォンホ:원호)まで与えています。

わかりやすく言うと、世子(セジャ)や世子嬪(セジャビン)と同格の葬礼を行い、通常だと3段階中最も格下の墓(ミョ:묘)という格の墓を立てなければならないのに、一段階上の園(ウォン:원)にしたということです。

嬪(ピン:빈)で園が適用されるのは、王の生母でつい存した場合に限られます。英祖(ヨンジョ:영조)の母・淑嬪崔氏(スクビンチェシ:숙빈최씨)の墓が昭寧墓(ソリョンミョ:소령묘)から昭寧園(ソリョンウォン:소령원)になったのがその一例です。

参考:昭寧園(ソリョンウォン) トンイ考

重臣たちもこれらの洪国栄(ホン・グギョン)の決定が礼法に沿ってないことは重々承知していましたが、誰も逆らえなかったのです。さらに洪国栄は、喪に服し朝廷の機能を26日間停止させる公除(コンジェ:공제)も行おうとしましたが、さすがにそれだけは阻止しました。

元嬪(ウォンビン)の墓は現在は「墓」という名前になっています。区画整備の関係で嬪(ピン:빈)たちの墓が集められ西三陵(ソサムルン:서삼릉)に移されています。墓碑には「英祖丙戌(1766)5月27日生 英祖己亥(1779)5月7日卒」と記されています。現王の諡号・正祖(チョンジョ)は死後に付けられるためこのような表記なのでしょう。享年14歳でした。

真実の元嬪(ウォンビン)は記録がないことからも考えて、平凡で慎ましい少女だったと思われます。強欲な兄の犠牲となって、はかない一生を終えてしまったというのが、彼女の実像なのではないでしょうか。

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