イ・サンの時代と日本
2014/02/13
スポンサードリンク
イ・サンの時代。俗に朝鮮のルネサンスと呼ばれていますが、当時の日本と比較すると、どのぐらいのレベルだったのでしょうか?
清・朝鮮・江戸幕府下の日本を比べると、客観的に見ても、朝鮮が一番文化的成熟が遅れていたと認識しています。
1592年からの俗にいう秀吉の朝鮮出兵壬辰倭乱(イムジンウェラン:임진왜란)と、1636年から清によって首都・漢城府が陥落した丙子胡乱(ピョンジャホラン:병자호란)によって、朝鮮は立ち直るのが不可能なぐらいの相当なダメージを受けました。
なんとか立ち直り始めたのが、トンイの旦那さまで第19代朝鮮王・粛宗(スクチョン:숙종)の頃です。彼の治世は1700年前後です。
その後、英祖(ヨンジョ:영조)と正祖(イ・サン)の時代が俗にいう「朝鮮のルネサンス」と言われている頃ですが、それでも文化的習熟度は日本には及びませんでした。
活字や図画という個々のものはすぐれていましたが・・・。
この頃の日本は元禄繚乱と歌われた元禄文化(1700年前後)から数十年あとです。
日本には寺子屋もあり、農民でさえ識字率が高く、向学心の高い農民が数百冊の蔵書を持っていたぐらい、文化的に熟していました。
ちょうど英祖(ヨンジョ)の御代1764年、朝鮮通信使に金仁谦(キム・インギョム:김인겸)という人がいて、韓国でも大変有名な長編紀行文日東壮遊歌(イルドンジャンユガ:일동장유가)を残しています。
思悼世子(サドセジャ:사도세자)がなくなったのが1762年ですから、その2年後のことです。
彼は反日でもありましたが、見聞に関しては客観性を重視しており、儒者にありがちな形式的観念に囚われることもなく、その才能の赴くままに豊かな表現力で見聞を記述しました。
その彼が、大阪に着いた時に驚いたのが、戸数が100万ほどあり、それらが瓦屋根だったことです。当時の漢城府は、イ・サンの時代に20万人を越えた程度で、藁葺きが圧倒的に多かったのです。
また、北京にも赴いたことのある訳官に聞くと「北京よりも繁栄している」との返答が。この時のことを「大阪は中国の伝説の都ではないか」と歌にしています。
その後、江戸についたときには「大阪よりも3倍すごく、この素晴らしさを歌にすることができない」と記しています。
彼はその悔しさから「犬畜生のような日本人を一掃して、我が国のものとしたい」とも言っています。
ホ・ギュンやイ・サンなどが描いた理想が現実のものになっていたら、当時の朝鮮も繁栄を謳歌したのではないかと思うのですが、歴史にタラレバなし。わかってはいても遺憾の念は禁じえません。
当ページの短縮URL https://xn--eck8a6l4a.com/?p=123
♬